茶の歴史【輸出・拡大・現代】について

茶の歴史【輸出・拡大・現代】

茶の輸出について


オランダの東インド会社が1,609年に長崎の平戸で営業を開始しました。翌年に、平戸よりインドネシアを経由してヨーロッパへ日本茶を輸出したのが、日本において最初の茶の輸出です。

当時のお茶は、釜茶(唐茶)と考えられています。 1,858年には、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスと『修好通商条約』を結び、生糸(60%)と並んで茶(20%)も重要な輸出品として181トンが輸出されました。

茶の各生産地では、輸出に力を入れた事や、政府が積極的に援助をしたため輸出増加に拍車がかかりました。

主な輸出先は、アメリカが主体であり、宇治製法(蒸し製法)のお茶が好まれる傾向にあったため、多様な地方茶が次第に影をひそめていった。

世界的な紅茶の生産


明治初期に、世界的に飲用が増加傾向にあった紅茶や烏龍茶などの製造の可能性が検証された。

1,874年には、『紅茶製法布達案並製法書』によって伝習が、中国風紅茶を熊本、大分など、インド風紅茶を高知、東京、静岡、福岡、鹿児島などで行われた。

日本でも、長期にわたり紅茶生産化を進めていき、1936年には約3,000トン、1,955年には約8,500トンにまで達した。

しかし、紅茶品種の開発・改良の努力にもかかわらず、気候や、風土などにより、品質の良いものを生産する事が出来なかった事や、途上国で生産される紅茶の価格面等で太刀打ちできなかった。

その後、貿易の自由化や為替の変動相場制の移行などにより紅茶の生産は次第に衰退の道を辿ることになった。

茶の生産について


1,860年頃までは、茶は山地や山間地などで生産されていたが、茶が輸出されるようになってからは、有望な作物として平地での生産が始まった。

集団茶園の典型的な例は、『士族授産事業』で、静岡県においては、中条金之助景昭らが江戸から旧家臣たちが家族とともに多く移住し、注目されていた貿易品として茶を生産するため、茶園開拓に従事した。

しかし、輸出茶の価格が初期のような高価格を維持していなかった事や、永年作物は成園化までの投資負担が大きいことから、ようやく収穫を得られるようになった茶園を残して離散していった。

その後、農民が残された茶園の後を引き継いだため、集団産地の形成は実を結んだ。この集団産地の形成は、流通の発展を促し、周辺の小都市に茶商、仲買人、茶問屋などが生まれ、茶業を中心とした関連産業の成立に大きく影響を与えた。

戦後以降の茶


お茶の生産は、戦中・戦後の食糧不足で食糧作物が優先されたために落ち込んでいった。

しかし、1,950年頃より生産が上昇しはじめ、1954年には荒茶生産高は、6万トン台にまで回復した。

この要因には、戦後の飢餓状態を緩和するため連合軍が食糧の見返物資の一つとして茶を指定したためである。

1,960年頃から、経済成長期に入り、加えて、茶商の上級茶志向への懸命な努力の甲斐あって国内需要が増加していった。

そして、1970年頃には、大衆用の下級茶生産に不足を来たして緑茶の輸入が始まり、茶業全体が繁栄の時代を迎えた。

1,975年頃には、国内生産量が過去最高の10万5,500トンに達したが、1,984年頃から徐々に減少している。

また近年は、本物志向を求める傾向で、茶の嗜好飲料として需要が増える一方、食生活の変化や多様化などにより保険飲料としての認識も増えている。

さらに、食の洋風化が一段と進み、日本人の味覚も変化していき、新たな茶の需要が迫られている。

また、利便性も求められるようになり、ティーバッグやインスタントティー、缶ドリンクや爆発的に普及したペットボトル入りの茶飲料が開発された。

現代の生産形態


生産面においては、茶農家の後継者不足が深刻化したため、農業協同組合による大型化が指導され規模の小さな茶農家は廃業するか、共同工場に参加するようになっていった。

製造においても、乗用式摘採機の導入による摘採時間の短縮や、茶工場の近代化により、短期間に製造できるようになり、茶の品質向上や安定化につながっている。

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